
新町嚴島神社
本殿
流造 二坪 昭和九年に氏子の大工真壁秀次郎により建築されました

御末社

石神弁財天
本来のインドの神のひとつ。河川を神格化したもので、もと農業神であったが、のち、音楽・弁舌の神となり、後世、福徳神として信仰を集めるようになった。像はいろいろとあったが琵琶(びわ)を弾じている美しい女像が代表的となった。我が国では、七福神のひとつとして祭られている。
「石神弁財天」
【1】夏目喜治氏による「茅ヶ崎駅周辺地図」によると新栄町2−1「空」の場所に「鳥居マーク、イチキ」の祠があったと記載され「ワダ豆腐店」の店主は「坂巻自転車」の場所に「たしかあった」と言っておりました。
【2】「イタチ」嚴島神社・・・夏目氏の地図によると元町11−11に弁天社跡と記載・・・元町周辺は伊藤家・・・「茅ヶ崎駅」誘致のため「茅」「芦」「茅芦」に大被た湿地帯に火を付け焼払い開墾するのだが、あまりの煙が天に向い白煙が「白龍」に変り「千ノ川」の方に流れ「白龍」伝説とし語り継がれているのです。
元町11−11の弁天社は、新栄町7−22地にコの字形の堀割にし島の真中に「イタチ」「弁天社」を祭った。
大正7年伊藤敦地内のコの字形「お堀り」も「ていしゃば通り」国道1号線につながる通りを作るため「お堀り」を埋め駅前に神社を建て2度目の「遷座」
その後、戦後昭和23年5月3度目の「遷座」をへて現在の新栄町2−10へ
石神弁財天 新栄町2−1から駅前、嚴島神社境内に遷座したことは確かだが、今現在、嚴島神社の横に安置(遷座)して下さったのは植岩園・野崎金平氏であることは現在判っています。昭和24年〜25年のことです。
「石神石棺」
茅ヶ崎相模鉄道機関区の敷地内に「石神石棺」があります。いつ頃作られたかは判りませんが、地名(石神)の由来のようで茅ヶ崎村(本村)〜「十間坂」の間土地の名称は一里塚通り(通称いちご道り)を境に「茅ヶ崎字東石神」と「茅ヶ崎西石神」と地図に記載されています。「一中通り」の中程にコンビニ「ローソン」があり道の向いのバス停の看板には「石神」と記入があります。