嚴島神社由緒

初宮詣・七五三詣・厄 除・家内安全・商売繁盛・交通安全他諸願祭並びに地鎮祭・竣工祭

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紋

新町嚴島神社

Shinmachi Itsukushima

本殿

流造 二坪 昭和九年に氏子の大工真壁秀次郎により建築されました

新町嚴島神社

御末社

石神弁天社

石神弁天社

当神社の治革を担う社の一つで、茅ヶ崎市元町十四番五号の水澤氏の宅地内にて祀られ水澤家の手により守られておりましたが、昭和六十年に天皇陛下御在位六十年並びに茅ヶ崎駅の橋上駅舎竣工を記念して境内に奉遷せられ、御神徳を広く分かつこととなりました。

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妙音弁財天

弁天様という別称で古くから親しまれていた緑をもちて、八角の神池の中にその御神像を昭和五十六年に祀り、琵琶持つお姿にちなみ妙音弁財天と名付けられ、音楽芸能の導きの御神として個神徳を広めております。

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妙音弁財天
石神弁財天|茅ヶ崎の嚴島神社

石神弁財天

本来のインドの神のひとつ。河川を神格化したもので、もと農業神であったが、のち、音楽・弁舌の神となり、後世、福徳神として信仰を集めるようになった。像はいろいろとあったが琵琶(びわ)を弾じている美しい女像が代表的となった。我が国では、七福神のひとつとして祭られている。

大正末期〜茅ヶ崎駅周辺地図〜

大正末期新町(新栄町)周辺状況

「石神弁財天」

【1】夏目喜治氏による「茅ヶ崎駅周辺地図」によると新栄町2−1「空」の場所に「鳥居マーク、イチキ」の祠があったと記載され「ワダ豆腐店」の店主は「坂巻自転車」の場所に「たしかあった」と言っておりました。

【2】「イタチ」嚴島神社・・・夏目氏の地図によると元町11−11に弁天社跡と記載・・・元町周辺は伊藤家・・・「茅ヶ崎駅」誘致のため「茅」「芦」「茅芦」に大被た湿地帯に火を付け焼払い開墾するのだが、あまりの煙が天に向い白煙が「白龍」に変り「千ノ川」の方に流れ「白龍」伝説とし語り継がれているのです。
元町11−11の弁天社は、新栄町7−22地にコの字形の堀割にし島の真中に「イタチ」「弁天社」を祭った。
大正7年伊藤敦地内のコの字形「お堀り」も「ていしゃば通り」国道1号線につながる通りを作るため「お堀り」を埋め駅前に神社を建て2度目の「遷座」
その後、戦後昭和23年5月3度目の「遷座」をへて現在の新栄町2−10へ
石神弁財天 新栄町2−1から駅前、嚴島神社境内に遷座したことは確かだが、今現在、嚴島神社の横に安置(遷座)して下さったのは植岩園・野崎金平氏であることは現在判っています。昭和24年〜25年のことです。

「石神石棺」

茅ヶ崎相模鉄道機関区の敷地内に「石神石棺」があります。いつ頃作られたかは判りませんが、地名(石神)の由来のようで茅ヶ崎村(本村)〜「十間坂」の間土地の名称は一里塚通り(通称いちご道り)を境に「茅ヶ崎字東石神」と「茅ヶ崎西石神」と地図に記載されています。「一中通り」の中程にコンビニ「ローソン」があり道の向いのバス停の看板には「石神」と記入があります。

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